母を見送りました。
1月14日に65歳になったばかりの母を父と見送りました。
今までずっとこちらでも、ツイッターでもFaceBookでも、何かあるごとに祈って応援してくださってありがとうございました。
こちらでも一区切りとして経過などを書かせていただこうと、それから再スタートをと思ったのですが、書けば書くほどどんどん言葉があふれ、書けば書くほど何か違うような気もするし・・・。
お世話になったクリニックの先生やスタッフの方へお礼のメールを先ほど書きました。
うまくまとめられなかった部分もありますが素直な気持ちです。
それをこちらでも掲載させていただいて皆様のお礼とご報告にさせていただこうと思います。
本当に今でも信じられないし、でももうわかっているような不思議な気持ちです。
毎日まだ泣くことが多いですがそれでも、日々の生活は少しずつ戻り、
失った味覚も戻りおいしいものはおいしいと感じられています。
ずっと夢に出てくる母は車いすで両足を失っていて、母が「夢に出てくる私は足があってうれしいの」という言葉にうまく返せなかったのだけれど今になって夢に出てきた母は足があり、ハイヒールを履いて私が見上げるほどの背丈で(私は155センチ母は165センチ)で忙しそうに大きな紙袋を持って私の横を歩いていました。きっと9年ほど前に先にあちらへ行った足とも無事に出会え、今も私や父の間をそして友達や支えてくれた人たちの間を行ったり来たり忙しくしてるんだと思います。
本当に生きて生きて生き抜きました。
きっとまた会えることに1ミクロンの疑いもない私です。それを教えてくれた母の世界を信じます。
さよならは言わず「かあさん。次もまた絶対に私を産んでね。またね」と言いました。
私は、服を選ぶのも、何かを選ぶことも、食に対するこの仕事も全部母が基準でした。
私が風邪をひかないようにするのも、帰るときには少し前から神経質になって風邪ひきの友人とは会わなかったり、人の集まるところにはいかなかったのも母基準でした。
遠方でも私の活躍が少しでも見れたらきっとうれしいだろうなとテレビも雑誌もラジオもきかっけで受けるようになりました。
本来引っ込み思案な私が変わったのも母の影響です。
私が生魚を食べないのは、10年前に神様に「母を助けて、私は一番好きなものを今後一切食べないから」と願掛けをしたからです。
それはこれからも変わらず、母の思いとともに、母の気持ちとともに、母が「もういいよ。こっちおいで」というまでできるだけ一生懸命人生を謳歌したいと思います。
今でも母が大好きです。母と寄り添った、ヘルパーさんなしでやりきった父を尊敬します。
私もずいぶんと病気の知識は得てしまいましたが、父は本当にすごかったです。本当に丁寧に最後まで母の尊厳を守って母が母のままでいられるように全力を尽くし、病気への知識も介護もプロ顔負けだったと思います。
「介護頑張った夫大会」とかあったらぶっちぎりで大賞だと思います。
本当にこんなすごい母、両親の娘がこんな凡人でいいのか?と思うくらいです。
それは永遠に変わりません。みんなに愛され、尊敬された母です。
介護という名の絆というかそういうものがあったせいか、我が家は、仲が良かったし、
この年になっても「心配」という言い訳で好きなだけ母を抱きしめられたし甘えられました。
決してそんなものはない方がいいに決まってるし強がりですけれど・・・。
もともと結婚して横浜にきて10年ですがその間もずっと少なくとも2か月にいちど10日くらい、最近では1か月に一度のペースで帰って手伝っていたのですが、半年くらい前から父一人では限界だからという話がでていて、私も覚悟を決め、お仕事も断り、
旦那さんも、旦那さんもお母さんも、旦那さんの会社も理解してくれ(ゆくゆくは旦那さんも大阪にという許可まで)12日の夜に父と
「じゃあそうするね。今回退院したら私も戻るね。旦那さんも納得してくれたからしばらく離れて暮らすから」と宣言したのに間に合いませんでした。13日のお昼に透析中に何度目かの心筋梗塞を起こし、14日に逝ってしまいました。
心残りはたくさんありますが、こういった場面では悔いが残るのが普通なんだと思います。
亡くなった時の倒れそうになった時横で黙って胸を貸してくれたのは旦那さんでした。
私と父が泣き続けるのをその場に一緒に10日近くその悲しみを分かち合ってくれました。
最後の最後まで意識朦朧としていた入院先でも旦那さんのことを心配してた母だったのできっと家族の中に巻き込んだんだろうなと。葬儀が終わった日母が寝ていた介護ベッドで母のにおいのする毛布で私が寝た次の日旦那さんもそのベッドですやすやと毛布にくるまって寝ていました。父も私も大泣きしたのを共有してくれたのでもう今後も我慢せず旦那さんの前でも泣けます。
最後の最後にめったにほめない私に「素敵な服着てるじゃない~」と私の服をほめ、パーマをかけた私の髪をほめ、そして「強くなったねえ」といった言葉を忘れずこれからも毎日大切に、父に親孝行をして笑って生きていきたいと思います。
急に目の前に悲しいことだけれど自由が広がってしまってどう扱っていいのかまだわからず戸惑いますが、旦那さんが「それもお母さんの贈り物だよ」というのでそう思うことにします。
横浜に来てからもこの10年ほとんど毎日母と電話をしていました。それも30分・40分・・・1時間を超えるような毎日の習慣でした。
母に電話をするから(かかってくるから)毎日その時間には家にいたし、週に3回ほどはさらに母からハガキが届きました。
今整理しているとものすごい枚数でどれも処分なんて1枚たりともできません。
木村拓哉さんが出るテレビをチェックするのは、母と話を合わせるため。
野球にまったく興味のない私が、なんとなくニュースで阪神の結果が気になるのも母のため。
デパートに行っては、母が着やすい透析もスムーズに出いてそしてオシャレな服を探していました。
1月3日が誕生日で、とても素敵な服を二人で見つけて退院したら渡そうと実家においていました。
その服は一度も着てはもらえなかったけれど間違いなく似合う服でそのままお棺に入れてもらいました。
お棺の中で母が着ていた服は、父が一番似合ってたから気に入ってたからといえまで取りに帰った私がプレゼントした服でした。
こうなった今も、何度も「あ!これあとで言おう・・」と一瞬頭がそう思いそうになるのを気づかないふりをしています。
結婚して名前が変わっても、私は娘のままでした。
それを許して時には一緒に母の気に入る服を探したり手伝ってくれていた旦那さんにも本当に感謝しています。
母の隙間は埋まることがなく涙もきっと何年たっても思い出しては泣くのだと思いますが、
それでも無理に我慢するよりもその気持ちと仲良くともに生きていった方がきっと私は楽だろうなと思っています。
母が12月に私を呼んで言った言葉は
「パパを一人にしないで、できれば近くに住んで」
「パパがもしかしたら誰かから責められたりしたら絶対に味方になってよ。
パパにいろいろ言ってあるから、それが母さんの気持ちだから従って」
でした。
型破りなお葬式も、私はパパの味方をしたし、ちゃんとわかってる。
お葬式屋さんびっくりしてたけれどね。でも理解してくれて一緒に作り上げてくれた。
ちゃんと代わりに、お世話になった方にハグもしたしお礼もいったよ。
涙でぐちゃぐちゃだったけどね。でも頑張ったよ。
用意するのが怖くて、喪服もレンタルだったし、一瞬よぎった気持ちを無視したくて
はいてったピンクのスニーカーのままだったけどそれは許してね。
3人ともレンタルだったけどね。
いつかは近くに住めるようにきっとなる。それまでも今まで通り帰るし
絶対に大事にする。親孝行するから。だからそこらへんにずっといてね。
本当はこの日がくることを、想像することもできないくらい恐怖で、でもそこまでその日が来てるかもしれないと思ってて
もしそうなったら気がどうにかなるんだろうなと思っていました。
でもならなかったし、ちゃんと見送れた。
こんなに辛いことを経験した私は、なんだかこの先何があっても乗り越えられるような気がしています。
本当に応援・心配してくださった皆様。メールやメッセをくれた友達。
お気遣いご配慮いただいたお仕事関係の皆様、お花もいただきありがとうございました。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
私は大丈夫です!新しいお仕事もいくつかはじまってますし、こなせています。
これからも「美味しい」の大切さと楽しさを私なりに綴っていきたいと思いますので変わらずお付き合いいただければ幸いです。
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